ぐるりのこと

このエッセイは手強い。気楽に読めない。とてもおもしろいこと、共感できることが書いてあるんだけど、読み進めるためにはかなり集中力が必要。

単行本化を機に、最初から通して読んでて、途中で「あ、こりゃ、読んでるだけだとついていけない」と諦めましたもん(笑)。各話が独立した話なら、読んでるだけでもなんとかなるんだけど、このエッセイは「ぐるりのこと」という一貫したテーマがあるので、全体としてのつながりも考えないといけない。…こりゃ、到底、ついていけないなあ、と。…で、読んでるだけだとついていけないなら、書いて整理しながらついていってやろうじゃねーか、と闘争心に火がついたわけ(笑)。

かくいう理由で、当サイトに久々に新しい項目が追加されることになりました。…という経緯なので、基本的に、自分の頭を整理するためのものです。

…何かお気づきの点があれば、掲示板等で教えていただけると幸いです。



向こう側とこちら側、そしてどちらでもない場所

この話のタイトルとストレートに関係のある言葉が出てくるのはここ↓

p.12
向こう側とこちら側。その境界線。はっきりとさせない緩衝地帯。もっとスマートな解決策がどこかにある予感がして、でもそれが何かまだ分からずにいる。

境界線のはっきりしない緩衝地帯を設けるやり方は確かに有効。でも、それ以外の「スマートな解決策」って? 関係するのはこのあたり↓かなあ……。

p.9
共感する、心の底から深く理解した(ように思う)という感動は、文化的歴史的バックグラウンドの全く違う相手との間の心理的境界を、構えを、取り去ることを可能にするのではないだろうか。


pp.14-15
主義も思想も価値観も違う相手に、文字通りの水際でどう対応するか。当事者には当事者のいかんともしがたい歴史と事情がある。それはそれでそれぞれの物語だ。利害がぶつかる。まったく理不尽に思える攻撃が加えられる。それでも、結局はこちらに相手の、または相手にこちらの、物語を、胸を開いて分かろうとする姿勢のあるなしが交渉の重要な鍵を握る。本当の駆け引きは、そこから始まる。相手にも歩み寄ってもらわねばならない。そういうふうに流れをもってゆく。自分の土俵に引きずり込む、のとは似て非なるやりかたで。まったく共感が持てないように思えた相手側の思考回路にも、変容していってもらわねばならない。それは相手側の物語の中で自然に発生してゆく変化でなくてはならない。強者が力ずくで、という形は何としてでも避けたい。そうでなくては「恨み」が残る。


これ、2つとも、自分とは違う相手とどう対応していくか、という話。これは、緩衝地帯を設けて問題を曖昧にする方法ではなくて、問題をはっきりさせていく方法。で、双方の変容の必要性が述べられてるけど、特に大事なのは、「相手側の物語の中で自然に発生してゆく変化でなくてはならない。強者が力ずくで、という形は何としてでも避けたい」という部分でしょう。たぶん。

第1話ということで、このエッセイ全体を貫く問題意識が述べられてるのは、ここ↓

p.14
和をもって尊しとなす、という私たちの骨身に染みついていたはずの古代からの美徳を、もう一度リニューアルする気で考えてみたい。




境界を行き来する

タイトルの言葉(境界を行き来する)が出てくるのはここ↓

p.32
この加藤作品に独特の、読み手を観察者の視点から当事者の事情の内へとシフトさせてゆく手法は、つまり、境界を自在に行き来する、意図的な方法でもあったのだ。


関連して↓

p.35
自分を保ったままで、自分の境界はしっかり保持したままで、違う次元の扉を開いてゆく。


自分と異なる人と対応する時には、「境界を行き来すること」が梨木さんの理想。そうするために注意しなきゃいけないこと、一つ↓

p.34
「美しさやヒロイズムに酔うこと」も、境界のこちら側の連帯や内部の共感を強くし、そして強くするばかりでなく、こちら側から動けなくしてしまうのだ。


↑これと関連して↓

p.25
私は断崖を見つめている。境界が、こんなにもはっきりしている。その事実がこんなに目の前にはっきり迫っている、そのことが、こちら側の人間の間の連帯のようなものを強くするのだろうか。


自他の関係構築について、おもしろいなあと思った視点がこれ↓

p.28
「共感する」というのは大事なことだ。が、それはあくまで「自分」の域を出ない。自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積があり、なおかつそれが揺り動かされるだけの情動が生じなければ働かないのだ。


↑「共感する」ことが「自分の域を出ない」とだけ言われても、ぴんとこないかもしれないけど、p.28の前半の例(献身的なキリスト者の社会活動)を読むとわかるはず。



隠れたい場所

タイトルの言葉(隠れたい場所)が出てくる箇所、1つめは、ムスリム女性のヘジャーブに関して↓

p.45
隠れているが、所在を隠しているわけではない。ええ、ここに隠れているのです、という開き直った安定感。隠れていて、しかも現れている。「自分」ということの線引きにおいては、なんとクリアーな境界。


「隠れたい場所」に関係した2つめの話は、藤原旅子の「隠れたかった場所」について。そして、そこから流れてくる言葉↓

p.51
人はいつでも、「個人の生」と並行して、「時代の生」をも生きなくてはなりません。


そして…

p.52
クリアーにしたい欲求はとてもよくわかる。ほとんど生理的なものだ。


p.53
たいていの場合、個人や集団の中で混沌としていたものが、その対立関係がその境界が、にわかにクリアーに突出してきたような気がする。さあ、おまえはどっちなのだ、と日本は迫られ、個人も迫られ、そのたびに重ねて行く選択が、知らず知らず世の中の加速度を増してしまう。いいとか、悪いとか、いう二分法ではないところで、私たちはうかうかとこの世界の加速度を増してゆく何かに荷担していってしまう。境界をクリアーに保ちたいと動いてしまう。ただ、わかっていることは、クリアーな境界に、ミソサザイの隠れる場所はないということだ。蛇の隠れる場所もないかわりに。それは皆、わかっているはずなのに。


境界をクリアーにしたいという欲求は人間が生理的に持ってるものだけど、クリアーにすることは必ずしも良いことばかりではない。生け垣のような境界と境界を不明確にするものであっても、その不明確さを持った境界は「隠れたい場所」にもなりうる。…って感じ? 「向こう側とこちら側、そしてどちらでもない場所」で出てきた「緩衝地帯」という言葉とも重なる。



風の巡る場所

ここまでとちょっと空気が変わる、トルコ滞在記。IとIIに分かれてて、Iは「母性」、IIは「言葉」がキーワード。

I.母性
梨木さんが「母性」という言葉にどういうイメージを持っているのか、一言では言えないけど、この箇所も↓「母性」に一つのあり方。…たぶん。

p.65
自分の感覚や記憶などがいかに曖昧なものであるか、身に沁みてわかっているつもりだけれど、とりあえず、手で触り、目で確かめ、皮膚で感じ取ったものを自分の内側に帰納させてゆく、その生活の場での積み重ねを基点に、世界に足を踏み出してゆく、そうでなければ「確からしさ」というものが一体どこから湧いてくるというのか。


そして…

p.69
母性的なものに縁遠かった人間であっても、場合によって、人は−男性も女性も−意識的にでも、行きずりにでも、母性を振る舞うことは出来る。そして時にそれは人を救う。たとえそれが滅亡に至る道行きの途上であっても。



II.言葉
p.77
言葉が通じ合えばそれで分かり合え(た気になり)、私たちは本当に親和的な共同体が営めるのか、という疑問は、(中略)どうしても拭えない。(中略)知れば知るほど違いが浮き彫りになり、嫌悪感が増す、というどうしようもなく生理的なアンヴィヴァレンツを基軸とした、人種憎悪の巨大な負のエネルギーは増大するばかりではなかったか。民間のレベルで言えば、(中略)親和的に共感を育む、ということには必ずしも言語を必要としないのではないか。


p.78
徹底的に分かりあいたいと思うのは、征服したいという衝動とほとんど同じなのではないか。(中略)それは、何と傲慢であることか。そしてこの「傲慢」の罠は、もう、日常生活の至るところに張り巡らされているのだ。それの一番の弊害は、ものを見えにくくすることだ。

…確かに。これ、「隠れたい場所」に出てきた「クリアーにすることの危うさ」と共通点のある指摘だよね。話はこれだけでは終わらず…

p.85
最終的にはどうしても言葉で総括しなければならないのだけれど。何というアンヴィヴァレンツ。でも止められない。なぜなら、全て承知の上で、それでもなお、私たちは、お互いを分かりたい、と欲して止まないものなのだから。それがどういう手段を選び、どういう馬鹿な結果を導こうとも。ああ。ああ。しようがないなあ。


…おまけ。梨木さんの書くことに対する思いが出てる言葉↓

p.74
確かに言葉は扱いに困る、厄介な代物だ。けれど私は言葉という素材を使って、光の照射角度や見る位置によって様々な模様や色が浮かび上がる、物語という一枚の布を織り上げることが、自分の仕事だと思っている。ただ作品だけを出してゆく、そういう職人でありたいと思う。そのためにはこのどうにも当てにならない言葉というものを信じてやってゆくしかないのだ。



大地へ

p.95
我々が本来感じているはずの、我々個人個人が構成して成り立っている社会に対する深い痛みが、中世の魔女狩りのように乱暴に的を絞った異端の追い回しにすり替わっている。その方がより安易に精神の安定が確保できるからだろう。本当にリアルな「感覚」の不在。

pp.98-99
いつもそこにあったものなのに、改めてその存在にはっとさせられることがある。自分の立っていた大地への、社会への、無意識の信頼。被害者の親、加害者の親、双方のいる場所−が、音を立てて崩れた瞬間を思うと言葉もない。大地は、そう、それを構成していた様々な養分がどんどん喪われて行き、以前のような確固たるものではなくなっていっているのだろう。

pp.101-102
少しずつ、少しずつやってゆけばいい。今まであった成分の喪われた大地なら、また、これまで考えられないような、全く違う方向からやってくる成分が加えられることも、充分考えられる。新しいそれが、従来の大地のバランスの中に収まって機能してゆくのには時間がかかるだろうし、眉をひそめるようなことも、しばしば起きるかもしれないけれど。耐えられるだけ深く悲しんで、静かに自分の胸に収めていこう。そして少しずつ、少しずつ、土壌菌のように、自分の仕事を積み重ねて行こう。丁寧に、心を込めて。それがネムノキの花のように、儚く見えるものであっても。


丁寧に、心を込めて。儚く見えるものであっても。



目的に向かう

目的に最短距離で到達するための「マニュアル」の危険性について。

p.110
その(マニュアルの)一番の弊害は、立ち止まって深く長く考え続ける思考の習慣が、身に付きにくくなることだ。そのことについて深く考える。深く悲しみ、考える。何日も何週間も何ヶ月も、あるいは何年も。日常生活をしている傍ら、心のどこかでそのことについて考え続けてゆく、そういう思考の習慣。試験ではそういうわけにはいかない。問題には求められる答えがあり、最短の時間で正確にそれへ到達するためのマニュアルを徹底して教え込まれる。

pp.112-113
世界の豊かさとゆっくり歩きながら見える景色、それを味わいつつも、必要とあらば目的地までの最短距離を自分で浮かび上がらせることが出来る力が欲しいのだ。要点を分かりやすくクリアーにして、自家薬籠中のものにしてゆく、使える力にしてゆく達成感にも覚えがある。けれど外的世界を内側にリフレクトさせながら、それらが互いに深化してゆく、その旅の醍醐味がなかったら、「目的に向かう」という行為に、どれほど意義が残っているというのだろう。

p.118
私はこれは何かの「答え」なのだと納得するのだった。けれど、さて、そんな訳の分からない「答え」に先立つ「問い」を、私はいつ設定したか。だけど、ああ、もう問いもスタートも要らない、ゴールは、辺りに充ち満ちているのだから。と、思える瞬間も、人生にはある。



群れの境界から


p.124
私には、人並み以上にそういうものに惹かれる傾向がある。「群れ全体の組織性にアイデンティティを見出し」ているのではなく、この、「個体性を超えた何か」に、「個体性以上の意味」を見出して行く、というところに。

p.129
今、はっきり言えることは、あの『ラスト・サムライ』中の登場人物の、「閉ざされた群れの中の精神性」を守るための命がけの行動より、雌ライオン、ラーセンの「群れを超えた」命がけの行動の方が、私には遙かに意味があり、可能性を持ち、感動的だということだ。

p.134
一人の人間を神格化して崇める、という行為には、自分で考える努力を放棄し、判断し決定する責任を他に押しつけた怠惰のにおいがする。どんな人間にだって苦悩し迷いも過ちもあったはずで、その試行錯誤の過程を等身大の同じ人間として受け入れたい。安易な神格化は軍隊内での苛めのような歪みを生み易くする。心理的な上位をつくってしまえば、必ず下もつくらなければすまなくなる。無意識の卑屈がどこかで相殺されることを求め始めるから。人は誰かを崇めるだけではバランスがとれなくなりがちなのだ。どんな相手でも、一人の人間として受けとめようとする努力を、放棄するわけにはいかない。

p.135
ヒトという、この本来、なぜ自分がここにいるのかすら甚だ心許ない、不安定きわまりない動物が、常に欲し、根元的に求めているのが、この、「安定」しているという感覚だとしたら、受け入れられてあること、(できることなら)愛されてあること、一体感、帰属感、そしてその個を統合する全体性への強い憧れを禁じ得ないものだとしたら、そのための「群れ」だとしたら、しかしもはやその「群れ」に、人を健やかに安定させる力が消え失せているとしたら、もう、「群れ」る必要はない。

pp.135-136
若草山を出て、大台ヶ原に向かった鹿も、案外、いざというときのための新しい餌場の可能性を探索しているのかもしれない。身軽に動くための孤独、というミッションを与えられた、大きな大きな、「群れ」の行動の一部なのかも知れない。小さな群れから、次の新しい次元の意識に繋がる、大きな大きな群れの括りにすでに再編成されているのかも知れない。


↑現在の「群れ」(国家?)に対して、かなり否定的な見解。でも、梨木さんは本来、「群れ」に理解のある方、ということも念頭に置いて読まなきゃいけないと思う。『からくりからくさ』を読むとすぐにわかることだけど、個を超えた民族意識(神崎の手紙に出てくるクルド人)は決して否定的に捉えられていなかったし、そもそも『からくりからくさ』のテーマだった「伝えること」も、「群れ」と密接な関係がある。←『ぐるりのこと』の127-128頁にもそう書いてあるし(「先祖から連綿と続いてきた、また続いてゆく「命」の旅の途中に個の自分の命を位置づけられるから、基本的な安定感が得られるのだ」)。

そして、「群れ」に対して理解のあった梨木さんが、「群れ」に対してこれだけ否定的なことを言わざるをえなくなっている、という事実は重く受けとめるべきなのでは?

関係ないけど、僕も一言だけ↓

p.133
少なくとも彼の身内大事の倫理が、そのまま今のグローバルを標榜する時代の倫理に差し換えられるものであるとは到底思えない。


↑この部分、誤解を招きやすい表現だと思うので、一言だけ。こういう表現を聞くと、「身内(自分、家族、友人など)さえも大事にできない人が、身内以外を大事にできるわけもない」と言いたくなる人いません?(←僕もこの言葉を見たとき、反射的にそう思った)。でも、そういうことは、梨木さんもよくわかってるからこそ、「ぐるりのこと」(=自分の身の回りのこと)というエッセイを書いてるわけで。

僕が思うのは、「国家」という単位を「身内」として考えさせようとするのは人間にとってそもそも無理があって、だからこそ、そうしようとした場合には問題が吹き出すんじゃないか、ってこと。社会のエリートでも指導者層でもない、ごく普通の一般人である僕にとって、「身内」として意識できるのは、どんなにがんばっても100人までのような気がする(現状では10人程度だし)。いくら日本が島国でまとまりが強いといっても、日本人全体を身内と考えろ、って言われても、僕には到底不可能。人間ってそういうもんじゃありません?

だからといって、地域とか国家とか地球に帰属意識がないかといえば、そうでもなくて。ちゃんと日本や地球の一員という意識はありますし、そういう意識を持つことはとても大事なことだとも思ってる。…だけど、帰属意識を持っている対象をすべて「身内」として認識できるかどうかは別問題のような気がする。

一言と言いながら、一言ではなくなってしまった…(-_-)


II
pp.139-140
「群れ」にあるということ、それ自体が人を優越させ、安定させ、ときに麻薬のような万能感を生む。そして人は時々、群れを外れている人に向かってそれを確かめ、群れの中にいることの快感を得たいと思う。甘やかな連帯は、そういうそこはかとないところで止めておくのが健やかさを保つ鍵である。その快感への渇望が暴走すると異分子を排除しようと痙攣を繰り返す異様に排他的な民族意識へと簡単に繋がる。しかし、その一歩手前で止めておけば、これもまた流離感と同じくノスタルジーに繋がる。

p.151
齢を重ねて、否応なく生活経験というものの増してくるうち、そういう相反するような性質のもの(群れへの回帰性と個への志向性のようなものも)が実はそうではないこと、一人の人間の中にそういうものが葛藤も見せずに(中略)存在しうるものであること、ともかく、人間とはどうやらそういうものであること、を、幾たびとなく他人のケースでも目の当たりにし、やがて意外ですらもなくなった頃から、私は、どうやらノスタルジーというものは、群れの境界で、個としての自分がいつか帰る場所を思って感じるようなものではないか、そしてそれは単なる感傷以上のもの、また理性とは違った働きで群れの暴走を食い止め得るもの、ではないかと思うようになってきた。




物語を

pp.160-161
「ぐるりのこと」は中心へ吸収され、充実した中心はぐるりへ還元されてゆく。

p.167
一個人が個人であることを超えて、家系を、民族を、世界を語り出す。そのとき、例えばアイヌの古老の「個」はどうなっていたのだろう。その、たぶん、「個」と微妙に融合した「群れ意識」の在り方はもちろん、私たちが自らの所属すると思う「群れ」に対して感じるようなものとはまるで違ったものだっただろう。

pp.167-168
近代化され、西洋化された現代の日本で、アイデンティティという言葉が使われるようになって久しいけれど、幾重にも取り囲む多層の世界、多様な価値観、それぞれとの間断なき相互作用、その中心にある不安定で動的な「自己」に、明確なアイデンティティを自覚するのは、生半可なことではないのだ、本当は。ましてやその「自己」が自身を取り囲む多層な世界を語り出す、などということは。その中に棲まう、地霊・言霊の力とおぼしきものを総動員して、一筋の明晰性と辿りゆくこと、それが「物語化」するということなのだろう。

p.168-169
自らの内側にしっかりと根を張ること。中心から境界へ。境界から中心へ。ぐるりから汲み上げた世界の分子を、中心でゆっくりと滋養に加工してゆく。

p.170
物語を語りたい。そこに人が存在する、その大地の由来を。